特集ページ 徳川家康と東金
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徳川家康と東金
2023年大河ドラマの主人公である徳川家康(とくがわいえやす)が、実は東金に来ていたことはご存じでしょうか。
このページでは、家康と東金にどのような関わりがあるのかを紹介します。
大河ドラマをきっかけに、東金と家康ゆかりの地を訪れてみてはいかがでしょうか。
徳川家康ってどんなひと?
三河国(みかわのくに、現在の愛知県)出身で、江戸幕府(えどばくふ)の初代将軍(しょだいしょうぐん)として有名な人物です。
1560年、桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)の後に今川家(いまがわけ)から独立し、織田信長(おだのぶなが)と同盟を結んで勢力を拡大します。1582年に起こった本能寺の変(ほんのうじのへん)の後、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が台頭すると、家康は秀吉と対立。1584年に起こった小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)を経て豊臣家に従います。
秀吉の死後、1600年、関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)に勝利した家康は、1603年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されます。そして、1614年の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)、1615年の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)を経て豊臣家を滅ぼし、250年以上続く江戸時代の基礎を築きました。
東金との関係(1) 御成街道(おなりかいどう)
1613年12月、土井利勝(どいとしかつ)が家康の命をうけて、船橋から東金までを結ぶ道を整備しました。これが「東金御成街道」です。御成街道の道中には東金までの中継拠点として、船橋御殿(船橋市)や御茶屋御殿(千葉市)が造成されます。東金市内で御成街道だったとされている道は明確には不明ですが、油井にある「おあし坂」は、御成街道の一部といわれています。
東金御成街道(おあし坂)
東金との関係(2) 東金御殿(とうがねごてん)と八鶴湖(はっかくこ)
御成街道の終点である東金には、東金御殿が造成されます。東金御殿は東金城の南方(現在千葉県立東金高等学校がある場所)に造られました。当時の東金御殿の建物配置は「御殿配置図(ごてんはいちず)」に残っています。(東金市デジタル歴史館 御殿配置図を参照。(別ウインドウで開く))
なお、八鶴湖は東金御殿の庭池として造成されたといわれていますが、東金のため池として重要な役割も担っていました。
八鶴湖と東金御殿方面
東金との関係(3) 鷹狩(たかがり)
鷹狩は、飼いならした鷹を操って行う狩りで、多くの戦国大名に流行しました。戦国大名の中でも特に鷹狩を嗜んだのは家康でした。隠居地である駿府(現在の静岡県静岡市)や府中(現在の東京都府中市)など、家康が鷹狩をしたと伝わる場所が各地にあります。東金もそのひとつです。
「駿府記(すんぷき)」によれば、家康は鷹狩のために、
・1614年1月9日から16日まで
・1615年11月17日から25日まで
以上2回東金に来訪しています。1614年の鷹狩は大坂冬の陣が起こる前、1615年の来訪は大坂夏の陣が終わった後の鷹狩でした。大きな戦いの前後に実施された鷹狩のため、「なぜこのタイミングで家康が東金に来たのか」という疑問は残りますが、少なくとも、東金が鷹狩を実施するのに適した場所だったことは確かでしょう。
東金との関係(4) 東金来訪中の寺社参詣
家康が東金に来訪した際、東金の寺社に参詣したと伝わっています。その一部を紹介します。
・本漸寺(ほんぜんじ)
本漸寺は八鶴湖をのぞむ城山の中腹にある寺院で、東金御殿の脇に位置していました。この本漸寺の境内には、家康が植えたとされる「お手植え蜜柑」の子孫木が残っています。
・最福寺(さいふくじ)
最福寺は八鶴湖のほとりに佇む寺院です。最福寺では、当時の住職である日善上人(にちぜんしょうにん)と家康が対談したと伝わっています。また、「駿府記」によると、1614年9月20日に、日善上人は駿府に招かれ、家康に拝謁しています。
・日吉神社(ひよしじんじゃ)
日吉神社は八鶴湖から山王坂を登った先にある神社です。日吉神社に参詣した家康は、当時の代官に社殿の改築を命じたと伝わっています。
本漸寺のお手植え蜜柑
最福寺にある家康と日善上人の像
日吉神社の杉並木
お知らせ
○ちば文化資産に、徳川家康に関連した場所である「東金御成街道」や「日吉神社」等が選定されています。詳しくはこちら(別ウインドウで開く)。
○9月2日(土)に東金文化会館小ホールにて、令和5年度歴史講演「徳川家と東金」を実施しました。
なお、当日の資料については、生涯学習課の窓口にて配布しています。
歴史講演の様子